バロックオペラの台本作家たち
Nicola Francesco Haym (1678 - 1729) ニコラ・フランチェスコ・ハイム イタリアの台本作家、作曲家、演奏家、劇場監督。 ロンドンにおける、ヘンデル、そしてボノンチーニのオペラ作曲家としての名声確立に寄与した。 生まれはローマ。当初はチェロ奏者として活躍し、後に至るまでチェロ奏者としてのキャリアは継続した。 1701年に渡英すると、ベッドフォード公の室内オーケストラの楽長の地位を得る。オペラ台本作家としては、 ボノンチーニの『カミーラ』のために台本を提供し、その将来性ある仕事により大成功をおさめ、 その人気をロンドンにおいて獲得することになった。 やがてロンドンはオペラの量産時代を迎え、新作オペラのみでは聴衆のニーズを満たすことが難しくなった ことから、既存の歌詞とアリアを流用した「パスティッチョ」が人気を集めるようになった。 ハイムはこのパスティッチョも多く手がけ、成功に拍車をかけた。 1720年には、新たなロイヤルアカデミー・オブ・ミュージックのチェロ奏者に就任。 やがてはその参事会員となる。 台本作者としてだけでなく、劇場監督としての仕事も果たし、1729年にロンドンで没するまで、 ヘンデルや、ヘンデルとともに劇場のマネジメントを手がけたハイデッガーの、良き理解者であり、 協力者であり続けた。 主な作品。 『カミーラ』、『エジプトのジューリオ・チェーザレ』、『ジェルマニア王オットーネ』、『フラーヴィオ』、 『タメルラーノ』、『ロンバルディア王妃ロデリンダ』 Philippe Quinault (1635 - 1688) フィリップ・キノー フランスの劇作家、台本作家。作曲家リュリの片腕として、フランス古典音楽の黄金時代を築いた。 当初は劇作家としてスタートした。わずか18歳で処女作を発表して以後、名声を得るようになる。 劇作家としての年金も得るようになり、宮廷での地歩を固めていった。 16作乃至17作ほどの劇作品を生み出した頃、アカデミー・フランセーズ会員となり、1671年、モリエールと コルネイユの協力のもと、舞踏劇『プシュケ』を発表。これにリュリが曲を付けたのをきっかけに、以後、 多くの台本をリュリのために提供することとなる。 リュリと組むようになると、受け取る報酬もさらに増加し、また名声もいよいよ高まっていった。 劇作品には辛らつな批評で応えた評論家ボワローも、その天才的な芸術性を認めるざるを得なかった。 キノーの台本の特色は、音楽との親和性の高さにあった。キノーこそ、イタリア以外のヨーロッパで、 オペラ台本というジャンルを確立したと言っても、決して過言ではない。 ルイ十四世の愛妾モンテスパン公爵夫人の不興を買ったことで、一時活動が停滞する時期もあったが、 ルイ十四世のために引退するまで台本を書き続けた。1688年にパリで没。 主な作品。 『プシュケ』1671年、『カドミスとエルミオーヌ』1674年、『アルチェステ』1674年、『テセ』1675年、 『アティス』1676年、『イシス』1677年、『プロセルピーヌ』1680年、『ペルセ』1682年、『ファエトン』1683年、 『ゴールのアマディ』1684年 Paolo Antonio Rolli (1687 - 1765) パオーロ・アントニオ・ロッリ イタリアの詩人、台本作家、また翻訳家。 ローマで建築家の子として出生、ペルージャのトーディで没。 メタスタージオの養育者でもあったグラーヴィナの薫陶を受け、特にイタリア文学史についての研鑽を積む。 渡英し、1715年から1744年までウェールズ公(後のイングランド王ジョージ二世)及び第一王女、 またその子どもたちのイタリア語教師を勤める。 その傍ら、ヘンデル、ボノンチーニ、アレッサンドロ・スカルラッティらが取り上げることになる多くの イタリア・オペラの台本を書き、英国にイタリア・オペラの魅力を伝えた。 1729年、英国学士院の会員に列せられる。 翻訳家の功績としては、イタリアにシェークスピア作品を紹介したほか、ミルトンの『失楽園』を無韻詩の形 でイタリア語に翻訳した。 主な作品。 『フロリダンテ』1721年、『グリゼルダ』1721年、『ガイウス・ムキウス』1722年、『リチャード一世』 1727年、『ダイダミア』1741年、『アレッサンドロ』など。 Antonio Salvi (1664 - 1724) アントニオ・サルヴィ フィレンツェのメディチ家に伺候した宮廷詩人、台本作家。また医師としてメディチ家の侍医も勤める。 とくに音楽を愛好したトスカーナ大公子フェルディナンド三世の寵愛を受け、その活躍は、バロック期の オペラ・セリアの勃興に寄与した。 医師としての仕事の傍ら、劇場のための台本を書くようになり、ラシーヌやモリエールなどのフランスの作家 たちの翻案を、リヴォルノとフィレンツェの劇場に提供。 さらに1701年から1710年の間に、メディチ家の別荘であるプラトリーノ荘において、7つの劇作品が 上演される。 フェルディナンド三世が早世した後は、ローマ、レッジョ・エミリア、トリノ、そしてアルプスを越えて ミュンヘンと、活動の場を広くフィレンツェの外に求めた。 晩年はフィレンツェへと戻り、60歳で没。 主な作品。 『アステュアナクス』1701年、『アルミーニオ』1703年、『スコットランド王女ジネーブラ』1708年、 『ベレニーチェ』1709年、『ロンバルディア王妃ロデリンダ』1710年、『ルーチョ・パピーリオ』1714年、 『イスケンデルベイ』1718年、『アデラーイデ』1722年 目次に戻る