パーセル作曲『妖精の女王』について

 パーセルは1659年生まれのイングランドの作曲家ですが、36歳の若さで没しました。
 短い人生のなかで800曲あまりの作品を書いたため、夭折の天才として、「英国のモーツァルト」などと言われることもあるようです。但し、様式的にも音楽性も、モーツァルトとはまったく異なるので、比喩としてはあまり適切とは言えない気がします。
 さて、初期バロック時代のイギリスは、ヨーロッパ大陸の他の地域のようには、オペラが勃興をみることはありませんでした。その理由は、1641年に起きた清教徒革命でしよう。王政の廃止後、清教徒の率いる共和政府は、その禁欲主義的な宗教理念から、音楽をはじめとする娯楽を敵対視し、劇場なども閉鎖したのです。
 そして、1660年に共和制が終焉し、王政復古の時代に入ると、イギリスの音楽は息を吹き返し、イタリアやフランスなどの音楽的影響を一気に受けることになります。
 パーセルは、こうした時代的背景のもとで活躍した作曲家でした。
 しかし、パーセルによる通常の歌劇という意味でのオペラは『ディドーとエネアス』ただ一曲のみでした。パーセルの大作『アーサー王』をはじめ、他のオペラ作品は、歌劇というよりは劇付帯音楽という性格のもので、芝居の間に織り込むための器楽曲や独唱、合唱曲の集合体というスタイルをとっており、セミ・オペラという呼ばれ方をされることもあるようです。
 イギリスに大陸のようなオペラが定着しなかったのは、上述のように清教徒革命による影響もあると考えられますが、もともとイギリスが、音楽以上に演劇を重視する文化的風土を持っていたという理由にもよるかも知れません。
 今回取り上げた『妖精の女王』もまた、ウィリアム・シェイクスピアの劇作『夏の夜の夢』に挿入される劇付帯音楽として作曲されたものです。なお、『妖精の女王』というと、おなじイギリスの16世紀の詩人スペンサーの長編詩が思い浮かぶ人もいると思いますが、別のものですので念のために。
 『夏の夜の夢』は、テセウスとヒュッポリテの結婚話と、妖精王オベロンと妖精の女王ティタニアの仲違いと和解の話とが織り交ざって進行していきます。しかし、さきほど述べたように、付帯音楽としての『妖精の女王』の内容は、物語とは直接的な関連のないものとなっています。歌詞やト書きにオベロンやティタニアの名前が現れるものの、歌手がオベロン役やティタニア役として歌うということはいっさいないのです。もちろん、じっさいにパーセルの音楽付きでこの芝居を観たなら、物語の随所に挟まれる歌や合唱に、劇の各場面に関する寓意的解釈を読み取ることは出来ると思いますが。
 全体は5幕で構成されています。
 第1幕は、「来たれ、いざ。この町を旅立とう」という恋の道行きの歌に続いて、酔いどれのへっぽこ詩人がニンフたちにからかわれる場面が歌われていきます。
 第2幕では、まず天の歌姫たちに呼びかける曲が歌われた後、夜、神秘、秘密、眠りの寓意的人物が、ニンフたちに囲まれてまどろむティタニアを歌で守護します。
 第3幕は、愛の苦しみと切なさが歌われたあとに、コリドンとモプサという二人のニンフの恋の駆け引きの歌が続き、愛の裏切りに対する仕打ちの歌と続きます。
 第4幕は、オベロンの誕生日を祝う歌に続き、フェーブスが愛の力で四季を呼び寄せ、春、夏、秋、冬の寓意的人物が四季の趣を歌います。
 第5幕は、真実の愛に懐疑的になってしまったヒュメーンが説得され、テセウスとヒュッポリテのまことの結婚が成就する内容です。
 台本作者は、ながらく不詳とされてきましたが、最近のNMLのホームページを確認したところ、16世紀から17世紀にかけて活躍したイギリスの詩人、劇作家のエルカーナー・セトルの名前が見えました。そこで、本訳文ノートにも、セトルの名前を入れさせていただきました。なお、同じオクスフォード大学の先輩であった大詩人ジョン・ドライデン(ヘンデルにも多くの霊感を与えた)は、彼とライヴァル関係にあったようです。


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