ブレシャネッロ作曲『ティスベ』について

 この『ティスベ』の原典となったのは、古代ローマの詩人オウィディウスの『変身物語』に収められている「ピュラモスとティスベ」の話です。
 二人はバビロンの町に住む恋人同士。けれども両家の折り合いが悪く、恋の成就が困難と覚った二人は駆け落ちをしようと考えます。待ち合わせ場所は暗闇迫る泉の桑の木のたもと。先にたどり着いたティスベが、ピュラモスの姿が見えないことに不安を覚えながらも待っていると、突然一頭のライオンが姿を現します。獲物を食べた直後らしく、牙は血糊で赤く染まっています。慌てたティスベは被っていたヴェールをその場に落として、森の中に逃げ込んでしまいます。その後に約束の場所に着いたのがピュラモスですが、そこには何と一頭のライオンが眠っていて、その傍らにはティスベが被っていたヴェールが血にまみれて落ちていました。ピュラモスは、ティスベがこのライオンに襲われて死んでしまったものと思い込み、絶望の余り手にしていた剣で自害してしまいます。ヴェールが血に汚れていたのは、獲物の血糊のついた口でライオンがそのヴェールと戯れたからにすぎなかったのですが、ピュラモスは勿論そんなことを知る由もありませんでした。やがてそこに戻って来たティスベは、最愛の恋人ピュラモスが自らの剣で自害している姿を見て悲嘆にかられ、自身もピュラモスの剣で自分を刺してこと切れます。後日、ことの全てを知った両家は、二人の恋に対する自分たちの無理解を悔やみ、二人をひとつの墓に弔い、和解するに至った、というのが原典のあらすじになります。
 すでにお気づきのことと思いますが、シェイクスピアの劇作『ロミオとジュリエット』はこれを翻案したものです。ことほどさように、「ピュラモスとティスベ」は当時のヨーロッパの人気テーマでした。マルコ・コッテリーニが翻案した台本には、あのハッセも曲を付けているほどです。
 さて、今回取り上げたブレシャネッロ作曲『ティスベ』の台本作者は、ピエル・ヤコポ・マルテッロです。17世紀後半から18世紀にかけて活躍した、ボローニャ生まれの詩人、劇作家であり、さらには外交官という顔も持っていました。もともと、この『ティスベ』は、実際のオペラ上演を予定してというわけではなく、マルテッロ本人が所属していたであろう人文主義サークルのために書かれたもののようです。そのため、台本は1697年には完成していたものの、ブレシャネッロが曲を付けたのはその20年後、シュトゥットガルトでオペラデビューを果たしたタイミングとなりました。
 ところで、マルテッロが書いたこの『ティスベ』の台本は、オイディウスの原典とは大いに異なっています。最終場面では、何とティスベがピュラモス(オペラではピュラモ)の後を追って死のうとしたとき、ピュラモが息を吹き返して、二人はめでたく生きて結ばれるという、原典とは真逆の設定になっているのです。その他にも、作中にはアルチェステとリコーリという二人の羊飼いの男女が登場し、奇妙な四角関係の中で物語が進行します。ティスベとピュラモが相思なのはもちろんですが、アルチェステはティスベに横恋慕し、リコーリはアルチェステを誘惑しようとするといった具合です。ただ、四角関係といっても登場人物はこの4人だけですので、すじはさほど複雑ではありません。また、4人の登場人物の性格描写がわかりやすいのも特徴で、恋する乙女そのもののようなティスベ、自由奔放な印象のリコーリ、直情的なアルチェステ、優男のようでじつは筋肉派のピュラモ(マルテッロの台本では、ライオンを相手に戦いついに殺してしまう)と、個性的な役ぞろいで、この作品を盛り上げています。
 Opera pastorale(牧歌劇)とは、物語の要素としては、素朴でのどかな田園趣味的舞台設定の中に人生の愛と死を描く手法のことで、羊飼いの男女が端役で登場し、物語に花を添えます。イタリア・ルネサンスのタッソやグァリーニといった詩人たちの作品がその祖です。いっぽう音楽的には、登場人物が比較的少数(3名ないし4名)であることと、全体として短めな構成になっているのが特徴ですが、形式としては通常のオペラと変わらることはありません。
 事実、このブレシャネッロ『ティスベ』の音楽の充実ぶりはたいへんなもので、堂々たる装いのフランス風序曲に始まり、いくつもの美しい旋律を持ったアリア、対照的な内容の2曲のコーロ、そして最終場の二重唱と飽きさせることがありません。とくに2曲目のコーロ「森をくまなく駆けまわれ…」など、音楽だけを耳にしていると、その壮麗さに、これがオペラの大団円かと勘違いしてしまうほどです。
 ブレシャネッロはイタリア出身の作曲家ですが、フィールドはドイツでした。時代的には大バッハが活躍していた頃とほぼ重なり、バロック音楽がその円熟を極めようとしていた時期です。この『ティスベ』一曲を聴いただけでも、バロックオペラの魅力にどっぷりと嵌まることが出来ます。


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